Report 3.29
2011年3月29日(火)
CRAZY 福島原子力発電所 食料支援レポート
文責:野上勇人
長文ですのでPDFにもまとめました。プリントしてご覧になりたい方は、こちらから20110329report(pdf)ダウンロードしてください。
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3月25日(金)に仕事を終えたあと、CRAZYメンバーでいつものようにお酒を飲みに行きました。その席で、東日本大震災と福島原子力発電所事故についての話になりました。
私(野上)は、福島原子力発電所の作業員に食料が満足に届いていないというニュースを目にして、「渡しに行きたい!」と思っていました(3月18日にmixiボイスにてそういった趣旨の発言をしています)。
そのことを東原に話すと、東原も「それはひどい話だね」と言い、それならふたりで行こうかと、合意しました。
その場で携帯から車を予約しました。そして「当日の朝に東京都内のコンビニを回って、おにぎりを200個購入して持っていく」という計画を立てました。
翌週の3月28日(月)には放射能防護用の作業着(業務用レインコート)を購入。
そして3月29日(火)、食料支援を決行しました。
以下、当日の我々の動きや現地の様子を、時系列でレポートします。
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1、高田馬場駅(7:45ごろ)
高田馬場駅に集合。手にはダンボールと、私の友人から託された支援物資を持っていた。天気は快晴。レンタカーの手続きを済ませて、四ッ谷の事務所に向かう。
2、四ッ谷(8:10ごろ)
事務所に到着。前日に買い込んでいた作業着に着替えて、ダンボール箱などの準備を整えた。事務所を出て、近所のコンビニで「おにぎり購入業務」を開始。以降、車で移動しながら、四ッ谷から飯田橋へ向かう途中でコンビニを次々にたどり、おにぎりを買い続ける。
とはいえ、それぞれのコンビニに迷惑がかからないように、買い占めない程度の数を購入することにしていた。そのため、購入を見送ったコンビニもあった。
1店のコンビニで20~40個のおにぎりを買うのだが、会計の時に「領収書をください」と言い添えると、不審な顔をされないで済んだ。
セブンイレブンが震災緊急支援として「おにぎり100円セール」をやっていたので、予算的に助かった。
3、飯田橋IC(10:00ごろ)
飯田橋のコンビニで、おにぎりが200個に達した。回ったコンビニは10店舗程度。
カーナビに従って飯田橋ICから首都高速に入る。常磐自動車道を目指して走る。常磐道の守谷PAを最初の停車と決める。
4、守谷PA(10:30ごろ)~常磐自動車道
最初の停車。支援物資の撮影を行う。高速道路情報誌には「盛岡お花見ドライブ」の特集が。「これ、今はもう行けないね」と東原が言う。
常磐自動車道は道路修復後らしき段差や、舗装されたばかりの車線が目立つ。地割れや陥没を直したのだろう。茨城県に入ると工事中の路線がいくつもあり、改めて今回の地震の強さを感じた。途中で東京電力の車を追いぬく。
水戸を過ぎたあたりから、周囲の車が減り始める。一般車よりもトラックやタンクローリーやその他特殊車両などが目立つようになる。
常磐道はいわき中央ICまで通行可能だった。いわき中央ICを過ぎると、30km圏内に入るのだろうか。
福島県に入る手前でマスクや軍手などを着用して完全防護しようということにして、中郷SAに停車しようと決めたが、中郷SAは「東京電力復旧基地」として閉鎖されていた。そこで、関本PAを目指すことにした。
5、関本PA(12:40ごろ)
停車している車は、一般車が半分、トラックやタンクローリーなどが半分といったところ。何らかの作業服を着た人を何人も見かける。
食堂に座って、福島第一原子力発電所からの直線距離を調べると、約68kmと判明した。
マスクと軍手を着用し、作業着のボタンも閉めて、PAを後にする。すぐに福島県に入った。
6、いわき勿来IC(13:10ごろ)~小名浜港の海岸沿い
常磐自動車道を降りて、一般道へ。国道289号線から国道6号線に入り、小名浜港を目指す。原子力発電所の作業員が、小名浜港に停泊している航海練習帆船「海王丸」で休んでいるという報道(ブルームバーグ:3月23日付)を見ていたので、まずはそこへ行って物資を渡せるかどうか聞くことにしていた。
【記事:原発作業員、震災後初の温かい食事-小名浜港停泊の「海王丸」で】
http://www.bloomberg.co.jp/apps/news?pid=jp09_story_email&sid=a.wW.S20HPYc
国道6号線は海岸に近いので、橋などを渡ると倒壊した建物などが見えてくる。初めて見る被害の状況はあまりに酷すぎて、「おお…」、「ああ…」、「なにこれ…」というような言葉しか出てこなかった。
カーナビに従って木戸脇交差点を右折し、小名浜港埠頭地域に入る。自衛隊の帆船らしき船を見かけたので、それが海王丸ではないかと思えたが、ひとまず当初の予定通り小名浜港湾事務所を目指す。
クレハ小名浜移送所の角を左折して、第7埠頭に入るが、入口が閉鎖されて立ち入り禁止。少し回り道をして、小名浜港の海岸通りに出る。
その、海岸線の埠頭をつなぐ道路からは、倉庫や工場などを隔てて海が見えた。津波をモロにくらったらしく、道路そのものも復旧作業中で、ところどころ工事をしていた。砂利だけになっていたり、砂がたまっていたりする場所もあった。地割れもあり、乗り越えるたびに車がガタガタと揺れた。通行速度は徐行指示であった。
道路際のブロック塀は壊れ、斜めになっている電柱も多かった。歩道の柵に自動車が斜めに乗っかっていたり、陸上に運ばれてしまった船が道路につきだしていたりと、いまだかつて見たことのない光景に、思わず息を飲むことも。
やがて目的地の小名浜港湾事務所周辺に到着するが、そのあたりは狭い道の両側に、車が一台通れるだけの道幅を残して、破壊された家の瓦礫や家財道具などが、1メートルくらいの高さで延々と積まれていた。豪雪地帯の道路に見られる雪の壁の代わりに、瓦礫の壁があるような感じ。瓦礫や家財道具の山から、家の中に何かを運んでいる人がちらほらいた。我々は写真撮影を控えることにした。
7、東北地方整備局 小名浜港湾事務所
小名浜港湾事務所に到着。駐車場にはたくさんの車が停まっていた。我々も車を停め、車外に出る。何かの作業をしている人がいたが、マスクなどはしていなかった。
港湾事務所に入ってマスクと軍手を外し、受付で趣旨を説明して、海王丸について尋ねる。海王丸は、通常は第6埠頭に停泊していることを教えてもらう。港湾事務所の人たちは、小名浜港の案内図を広げて、親切に説明してくれた。案内図をもらって、港湾事務所を後にする。
通ってきた道を引き返して、第6埠頭に向かう。第5埠頭と第6埠頭はくっついているのだが、入ってみても船の姿は見当たらなかった。「休憩所」と看板が出ている小さなプレハブがあったが、斜めに傾いていた。あれじゃ休憩どころじゃないな、と思った。我々は来る途中で見かけた自衛隊の帆船らしき船に行ってみることにした。
その船は第7埠頭の先の藤原埠頭に停まっていた。橋を1つ渡って藤原埠頭へ。埠頭に入ると前に車が見えたので、追いかけてみると、帆船が停泊している埠頭の先端に着いた。前の車は関係者だったようだ。
埠頭の先端あたりも、地面が割れてそこかしこに段差ができていた。我々は車を停めて、降りてみた。
8、小名浜港 藤原埠頭(14:00ごろ)
藤原埠頭には大小いくつかの帆船が停まっていて、陸上にはテントがあった。周囲にいる人は自衛隊か何かの制服や、何らかの作業着を着ていた。テントにいる人に話をしてみようと近づいてみるが、何かの作業中だったため、小さめの帆船で煙草を吸っていた人に聞いてみる。すると「大きい帆船のほうで聞いてみてくれ」と言われたので、我々は大きい帆船のほうに行ってみる。途中に停まっていた小船には「U.S. NAVY」の文字が。米軍兵とおぼしき外国人も見かけた。「NEWS」というロゴが入ったジャンパーを着た、取材中らしき記者も見かけた。
大きい帆船は2艘停まっていて、手前側が何かの作業中だったため、奥側の帆船に行ってみた。帆船の看板には「しらゆき」と書いてあった。あとで調べたが、海上自衛隊の護衛艦123「しらゆき」であったようだ。
「しらゆき」の船上にいる自衛官に話しかけて、趣旨を説明すると、上官を呼んできてくれた。上官に趣旨を説明して、「これで物資を渡せる!」と思ったのだが、上官はいったん帆船に戻ってから、県庁との連絡を担当している人(おそらく県庁職員)を連れてきた。その職員に、「ここでは受け取れない。正規ルートを通してほしい。物資の受け入れは福島県庁で行っているから、まずは県庁に行ってくれ」という内容のことを言われ、物資の受け取りを断られた。
仕方がないので、きびすを返して福島県庁に向かうことにする。だがカーナビで福島県庁の場所を調べると、小名浜港からかなりの距離があった。そこで、いったん電話で問い合せてみようと、車を走らせながら助手席の東原が携帯で福島県庁のホームページを調べた。すると福島県庁では、個人からの支援物資は受け付けていないことが判明。
【福島県庁:個人の方からの義援物資「混乱を避けるため、申し訳ありませんが辞退させていただきます」】
http://wwwcms.pref.fukushima.jp/pcp_portal/PortalServlet?DISPLAY_ID=DIRECT&NEXT_DISPLAY_ID=U000004&CONTENTS_ID=23682
これでは、たとえ福島県庁に行っても、受け取ってもらえない可能性が高い。
休業中のコンビニの駐車場に車を停めて、我々はしばし協議した。そして、「役人は頼りにならない」という内容で合意した。我々は福島県庁ではなく、原子力発電所に向かってみることにした。
原子力発電所に向かえば、どこかで必ず止められるはず。そうしたらそこで、渡す方法を聞いてみる。そんな方針を立てた。
カーナビに福島第一原子力発電所の住所を入力して、いざ出発。国道6号線を北上していくと、四倉漁港周辺に着いた。
9、四倉漁港(15:20ごろ)
国道6号線は、四倉漁港周辺で海岸沿いに出る。海岸に近づくにつれて、津波の被害が顕著に見られるようになってくる。ここでも路肩に斜めに突き立つ自動車や上陸してしまった船を見かける。海岸の際まで行くと、崩れた民家や船の残骸を目にした。
海岸の際で国道6号線が通行止めになっていたため、通行止めの案内をしていた人に、趣旨を説明する。しかし、その人はただの交通整理員だったため、「いわき四倉IC付近に警察がいるからそこに行って聞いてみてくれ」と言われる。
我々は壊れた民家の間の道を抜けて、国道41号線に出て、いわき四倉ICに向かった。民家の間の道には壊れた船の破片が転がっていた。地割れを起こした道路は、地割れ部分に赤線が引いてあるだけのところもあった。
国道41号線からいわき四倉ICに行くが、常磐道が通行止めであるため、ICは閉鎖されていた。そこに係員はいないようだったので、国道35号線に移り、福島第一原子力発電所に向かう。するとすぐに、検問所が見えてきた。
10、福島第一原子力発電所30km圏の検問所
国道35号線と245号線の交差点にあるセブンイレブンに警察車両が停まっていて、そこが検問所となっていた。警察官はマスクをしていたが、それ以上の特別な防護はしていなかった。順番に車が止められて、Uターンしている車もいたが、先に進んでいる車もいた。
我々の車も止められ、検問を受ける。「この先は屋内退避圏内であり、広野町を過ぎると避難指示区域の20km圏内に入ります。そこから先は自己責任でお願いします」と言われる。免許証の提示を求められたので提示すると、免許証番号を控えられた。
「原子力発電所の作業員に支援物資を渡したいのだが、どうすればいいのか」と尋ねると、「私たちは応援に来ている愛知県警だからわからない」という内容の返事だった。
「それでは、この先に行ってみてもいいか」と聞くと、「自己責任で判断してくださいとしか言えない」という内容の返事。「20km圏のところに検問所はあるか」と聞くと「ない」という返事。そして我々は、検問を抜けた。
検問を抜けてすぐ、車を停めて協議したが、行けるところまで行くことに決めた。この頃になると、物資を渡さずに帰るものかと、少し意地になる気持ちも芽生えていた。と同時に、屋内退避地域である30km圏内に入って、被曝が怖い気持ちもあった。
30km圏内はあきらかに車が少なく、人もまったく歩いていなかった。周囲はだんだんと山道になり、枯れ木が目立ち、道路にはところどころ地割れなどがあった。荒涼とした景色だった。
道路の地割れはほとんど修復されていない。赤線が引いてあるだけだったり、カラーコーンで通行できないようにしてあったりといった具合だった。
11、広野町~楢葉町
広野町に入ったあたりで、行く手に2本の煙突のようなものが見えた。それが、テレビで見る原子力発電所のタワーにそっくりだったので、「原発か!?」と思ったが、距離から考えると違うことがわかった。あとで調べたところ、それは東京電力広野火力発電所だった。
広野町に入っても、やはり人の気配はほとんどない。しかし車はたまにすれ違ったり、後ろからついてきたりする。検問所の警察官に、広野町から先が20km圏内だと聞いていたが、実際にどこからが20km圏内なのか、カーナビでおおよそ把握するしかなかった。ただしカーナビは道のりを表示するので、直線距離ではわからなかった。
途中、道の両側にカラーコーンが置いてある場所があったので、「ここからが20km圏内か?」と思ったが、それは地割れの場所を示しているだけだった。
たまにすれ違う車を覗くと、テレビのニュースで見た放射能防護マスクをして、完全防護の格好をした人ばかりが乗っている。そんな車が多くなった。
やがてカーナビが曲がれと言うので、信用して曲がってみた。そこは細い山道だった。アクセルを踏もうとした時、サッと道に飛び出す物があった。「ネコ!」と叫んで、私は車を止めた。
それはまだ子どもの猫だった。種類はアメリカン・ショートヘアだろう。車の前、道の真ん中に陣取って、動こうとしない。おそらく飼い主はどこかに避難してしまって、この猫だけがとり残されたのだろう。顔を見ると、目やにが溜まって、目が開かなくなっている。
猫をどかそうとして車から降りると、猫は足元に寄ってきて、私の足に頭を擦り付けてきた。車と人間をまったく恐れていない。飼い猫であることは間違いないだろう。
我々はこの猫をどうしようかと相談した。ここにいたら確実に死んでしまう。餓死なのか、あるいは被曝死か…。乗せていくことも検討したが、我々はこれからもっと原発の近くに行く。それはこの場所より危険な場所に行くことを意味する。それに加え、この時点ですでに16時近くになっており、帰京の時間を考えると、急ぎたい気持ちもあった。我々は断腸の思いで、猫を置いて車を発進させた。帰りにその猫がいたら拾っていくことを確認し合って。
その先の細い山道は、車も通らず、人の気配はなく、どんどん道幅が狭くなっていった。両側が土砂崩れしているところを通り、田んぼの真ん中の狭い道を走るころには、本当にたどり着けるのか、どんどん不安になっていった。ただでさえ第一原発から20km圏内であり、放射能の危険もあった。しかし放射線や放射性物質はまったく目に見えない。とても心細かった。
なんとか大きな通りに出ると、そこは国道6号線だった。カーナビはひたすら北上するルートを示している。我々は6号線を北上した。途中の歩道には、飼い主を失ったらしい犬が何頭も歩いていた。
6号線沿いにあるJヴィレッジを過ぎたあたりから、道路は、片側しか通行できないくらいに地割れを起こしたり陥没したりしている場所が多くなってきた。改めて、福島原子力発電所の周辺は地震の被害も相当にあったのだということを思い知らされた。そして道路工事の作業員を見かけるようになった。
道路作業員は作業服にマスクといった格好で、片側通行の場所を通行しようとする我々に、交通整理をしてくれたこともあった。
国道6号線は上繁岡の交差点で通行止めとなっていた。一部、車止めが開いていたので先に進んでみるが、すぐに地割れが酷くて進めなくなった。そこで引き返して、他の車が曲がっていく方向に曲がってみると、助手席で東原が声をあげた。「あれ東京電力の車じゃない?」
見ると、2台前の車にTEPCOのマークがついている。その車を追いかけることにした。途中の道はそれまでよりもさらに酷い壊れ方であった。路面に直径50cm~2mくらいの穴がボコボコとあいていて、そこにカラーコーンなどが立てられているような場所もあった。あとから調べたところ、我々は国道244号線に入り、「ほらぐち商店」の角を右折し、国道391号線に入るというルートをたどったらしい。
やがて、東京電力の車が、門のある施設の中へと入っていった。門の向こうには「関係者以外立ち入り禁止」と看板があり、入場規制をするための受付があった。車を停めると、受付のある建物から、東京電力のマークが入ったヘルメットを被った男性が出てきた。そこが、福島第二原子力発電所だった。
12、福島第二原子力発電所(16:20ごろ)
ようやく物資を渡すことができそうで、我々の心は高ぶっていた。窓をあけると、男性が車に近寄ってきた。その人に、「原子力発電所の作業員に食料を持ってきた」と伝えた。
すると「ボランティアの方ですか?」と聞かれた。ボランティアという認識が薄かったので、私は、「言われてみればボランティアだったな」などと思いながら、「そうです」と答えた。
男性はいったん建物に戻り、別の2人を引き連れて戻ってきた。その中の上司らしき人が近寄ってきたので、「受け取っていただけますか?」と聞くと、「ええ、ありがとうございます」と言ってくれた。
我々は車を降りて、車の後部ドアを開け、おにぎり200個と友人から預かった食料が入ったダンボール箱2つを渡した。上司らしき人と「どちらからいらっしゃったんですか?」「東京からです。東京のコンビニで今朝、おにぎりを買ってきました」というようなやりとりをしている最中、他の2人の方が「おお、おにぎりだ!」と言っているのを聞いた。喜んでもらえていることが実感できた。そして同時に、食料が不足しているという報道は事実なんだろう、とも思った。
そして、「福島原子力発電所で緊急作業にあたる皆様へ」と題したメッセージペーパーも手渡した。
「何か証明書のようなものは必要ですか?」と聞かれたので、「いえ特に」と答えると、「お名刺などはありますか?」と言われた。名刺をバッグから取り出して、上司らしき人に渡した。その人が「すみません、こちらは名刺がなくて…」というので、名前を書いていただくことにした。カバンから裏紙とペンを取り出して書いてもらうと、その人は「東京電力(株) 福島第二原子力発電所 防災安全部 防護管理グループ 副長」だった。座り込んで、膝の上で丁寧に書いてくれた。
それから、証拠写真として記念撮影。3人に並んでもらって写真を撮った。私も入って4人で写真を撮った。そして最後に「がんばってください!」と激励した。
受付の建物をぐるりと回ってUターンして、我々は福島第二原子力発電所を後にした。
[帰路]
1、福島第二原子力発電所(16:45ごろ)~いわき市街
福島第二原子力発電所を出てすぐに、車を停めて、我々はまず握手をした。紆余曲折の末、目的を果たせたことが嬉しかった。全身から力が抜けていた。
「どこに行けば渡せるのか」「第一原子力発電所までたどりついてしまったらどうしよう」「道路がブッ壊れている」「帰りの時間が見えない」「今いる場所の放射能の状況がわからない」「原子力発電所が緊急退避の事態になったとしてもすぐには情報が得られない」・・・。福島第二原子力発電所に着くまで、我々はこれだけの不安要素と闘っていた。
第二原子力発電所にたどりつき、物資を渡せたことで、あとは帰るだけとなった。ほとんどの不安が消えたのだ。その代わりに、目的を成し遂げた充実感でいっぱいになった。自然と顔がほころんできた。
不思議なことに、放射能に対する恐怖感もなくなっていた。それは、原子力発電所の受付にいた人たちが、マスク、手袋、作業服と、我々とさして変わらない防護だったからだろう。
帰りは、壊れた道路などを撮影しながら帰ることにした。穴の開いた道路や土砂崩れの道の写真などは、帰りに撮影した。
来た道を戻るだけなのだが、通行止めの箇所などもあるので、カーナビはあまり役に立たない。行きに曲がった場所を思い出しながら、道をたどった。
国道6号線から、広野町あたりの狭い山道に入り、猫のことを思い出す。果たして、同じ場所にいるだろうか? 「いたら保護しよう」と確認し合って、山道を進んだ。
「この辺だったよね」「たぶんそうだよね」と言っていると、東原が「いた!」と叫んだ。見ると、行きとまったく同じように、道の真ん中に猫が座っていた。
私が車を停める。東原が降りて、抱き上げて、車に連れてくる。車に入れようとすると暴れて、外に出てしまう。それでも無理矢理、車に入れて、すぐにドアを閉めて出発した。
助手席の東原の上で、猫は暴れながら、ミューミューと高い声で泣き叫んでいる。抱いておとなしくさせようとする東原が、引っかかれている。私はとにかく車を走らせる。35号線に戻り、途中の山道で、猫は一回「ケホッ」と吐きそうになった。
「どこまで連れていく?」「東京まで連れていく?」「いやどこかで放そう。飼えないのに連れて帰っちゃダメだよ」「どこで放す?」「とりあえず30km圏を出て、どこかでご飯を食べさせてあげてからだね」というようなやりとりをしながら、我々は30km地点の検問所まで急いだ。
途中、あまりに猫が暴れるので、車を停めて、フラットに倒した後部座席に放した。すると猫はおとなしくなった。「この子、抱っこが嫌いなんだね」と東原が言った。
30km地点の検問所は、何事もなく通過することができた。我々はいわき中央ICに向かうことにした。いわき市街に入り、ようやく店を見つけてキャットフードを買うことができた。食べ物と水を与えて、猫を放した。
2、いわき湯本IC(19:00ごろ)~高田馬場駅(22:00ごろ)
いわき市街を通っていわき中央ICに向かったのだが、いわき市街はわりと混雑していて、カーナビに従っているうちにいわき湯本ICに近づいてきた。国道6号線を南下するといわき湯本ICの近くまで行けるので、いわき湯本ICから常磐自動車道に乗ることに決めた。
無事にいわき湯本ICから常磐道に乗り、行きに立ち寄った関本PAに到着。そこで防護用のマスク・軍手・作業着を脱ぐことにする。トイレで着替えて、それらをすべて捨てた。
レンタカーを返す時間は大幅に過ぎていて、すでに連絡済みだったのだが、なんとか早めに東京に帰って、食事をしてお酒を飲みたかった。我々はろくに食事もしていなかったのだ。
早々に関本PAを後にして、東京へと急いだ。
夜の常磐道は明かりが少ないので、路面が見えにくい。地震の被害で道路の修復跡が多いため、車がポンポンと跳ねてハンドルをとられてしまう。首都高速に入るまでの約2時間ほどの間の運転は、まったく油断ができなかった。ドリンクひと口さえ飲めなかった。
途中、ガソリンがのこりわずかとなり、とても焦ったが、なんとか早稲田ICに到着。急いでガソリンスタンドに向かい、事無きを得た。そして高田馬場駅でレンタカーを返却し、我々はようやく食事と酒にありついた。
時刻は22:00を過ぎていた。
(了)
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